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第一章 再会――止まっていた時間

Penulis: 海野雫
last update Terakhir Diperbarui: 2025-12-01 19:00:17

 朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。

 高橋颯は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ます。六時半。いつもと同じ時間だ。体が勝手に覚えている日常のリズムだった。ベッドから起き上がり、窓を開ける。四月の朝の空気は、まだ少し肌寒い。遠くで鳥の声が聞こえた。

 洗面所の鏡に映る自分の顔を見つめる。二十七歳。大学を出て五年。顔つきは多少大人びたかもしれないが、本質的な部分は変わっていない気がする。髪を整え、髭を剃る。これも毎朝の儀式のようなものだ。

 キッチンでコーヒーを淹れる。豆を挽く音が静かな部屋に響く。この音を聞くと、なぜか研究室のコーヒーメーカーを思い出してしまう。深夜、疲れた体にカフェインを流し込みながら、コードと格闘した日々。そして、隣で同じように作業をしていた人のことを――。

 首を振って、雑念を追い払う。今日は新プロジェクトのキックオフ。集中しなければ。

 朝食は簡単に済ませた。トーストとスクランブルエッグ。テレビのニュースは経済の話題ばかりで、あまり興味が湧かない。時計を確認し、スーツに着替える。ネクタイを結びながら、今日の予定を頭の中で整理した。九時から全体会議。新しいプロジェクトの詳細が発表される。

 マンションを出ると、通勤の人波がすでに動き始めていた。駅までの道のりは、もう体が覚えている。信号の変わるタイミング、人の流れの癖、全てが予測できる範囲内だった。

 電車のホームでは、いつもの場所に立つ。三両目の二番ドア。ここが一番乗り換えに便利だと、入社してすぐに覚えた。三両目の二番ドア。ここが一番乗り換えに便利だと、入社してすぐに覚えた。同じ時間、同じ車両には、見覚えのある顔がいくつもあった。名前は知らないが、同じ時を共有する仲間のような存在。

 吊り革につかまり、スマートフォンでプロジェクトの進捗を確認する。昨日までのタスクは全て完了。今日から新しいフェーズが始まる。画面に表示されるコードの断片を見ていると、ふと指が止まった。

 return false;

 この一行が、妙に目に留まる。偽を返す。否定を返す。五年前、自分も同じことをしたのではないか。想いを伝えることを否定し、何も言わずに終わらせた。

 窓の外を流れる風景は、春の色に染まっていた。桜はもう盛りを過ぎ、花びらが風に舞っている。新しい季節。新しい始まり。なのに、心のどこかには古い記憶が澱のように沈んでいる。

 ――感情を判断に入れるべきじゃない。

 春海悠斗の声が、今でも耳の奥に残っている。あの夜、研究室の蛍光灯の下で聞いた言葉。理性的で、正しくて、そして冷たかった。

 颯が初めて本気で恋をした相手は、感情を否定する人だった。皮肉なものだと思う。感情を大切にする颯と、理性を重んじる春海は、最初から噛み合うはずのない組み合わせだった。

 電車が駅に着く。人の流れに押し出されるようにホームに降り、改札を抜ける。オフィス街の朝は、いつも同じような顔をしている。急ぎ足で歩く会社員、コンビニで朝食を買う若い女性、信号待ちをしながら新聞を読む中年男性。みんな、それぞれの日常を生きている。

 オフィスビルのエントランスに入ると、冷房の効いた空気が肌に触れた。外の春の暖かさとは対照的な、人工的な涼しさ。エレベーターホールには、すでに列ができていた。

「おはようございます」

 顔見知りの他部署の人と挨拶を交わす。エレベーターの中では、みんな黙ってスマートフォンを見つめている。階数表示がゆっくりと上がっていく。七階、八階、九階……。

 十二階で降り、開発フロアに入る。朝の光がガラス張りの窓から差し込み、フロア全体を明るく照らしている。すでに早出のメンバーが仕事を始めていた。キーボードを叩く音が、静かな朝の空気に規則正しいリズムを刻んでいる。

 この音を聞くと、いつも大学の研究室を思い出す。深夜、蛍光灯の下で聞いた同じような音。隣で作業をしていた春海のキーボードは、颯のものより少し重い音がした。機械的で、正確で、迷いのない音。

 自分のデスクに着き、パソコンを起動する。見慣れたデスクトップ画面が表示される。メールソフトを開くと、いくつかの新着メッセージが届いていた。定例の連絡事項、システムメンテナンスの通知、そして――新プロジェクトに関する詳細資料。

「おはよう、高橋くん」

 振り返ると、同期の田中美咲が立っていた。彼女はいつも明るく、チームのムードメーカー的存在だ。今日も笑顔が眩しい。

「おはよう。今日は早いね」

「新プロジェクトの準備でね。昨日から緊張して、ほとんど眠れなかったんだ」

 田中はデスクに腰掛け、コーヒーカップを両手で包み込む。湯気が彼女の眼鏡を曇らせた。

「高橋くんは緊張しない? 今回のプロジェクト、規模が大きいって聞いてるけど」

「まあ、少しは」

 颯は曖昧に笑った。緊張というより、期待の方が大きい。最近、仕事が面白くなってきている。大学時代に学んだアルゴリズムやデータ構造が、実際のシステム開発でいかせるようになってきた。

「私なんて心臓バクバクだよ。だって、今回のプロジェクトリーダー、すごい人が来るって噂じゃない?」

「すごい人?」

 颯は首を傾げた。そんな話は聞いていない。田中は声を潜め、周りを見回してから続ける。

「知らないの? 他社から引き抜いたエースだって。AIの分野では相当な実績があるらしいよ。某大手で最年少でプロジェクトマネージャーになった人だとか」

「へえ……」

 颯は生返事をしながら、手元の資料を確認する。プロジェクトの概要、技術スタック、開発スケジュール。どれも興味深い内容だった。特に、最新のディープラーニング技術を活用するという点が目を引く。

「なんでも、まだ三十代前半なのに、もう統括クラスの実力があるんだって。学歴もすごいらしいよ。国立大の大学院出身で、研究論文もたくさん発表してるとか」

 田中の言葉に、颯の手が止まった。国立大の大学院。まさか――いや、そんな偶然があるはずがない。

 時計を見ると、会議まであと十五分。颯は資料を印刷し、ノートとペンを用意した。田中も自分の席に戻り、準備を始める。フロア全体が、少しずつざわめき始めた。新しいプロジェクトへの期待と緊張が、空気に満ちている。

 会議室に向かう途中、ガラス張りの廊下から外の景色が見えた。春の陽射しが眩しい。遠くのビル群が朝日を反射してきらきらと光っている。その光景が、なぜか過去と現在を繋ぐ橋のように思えた。

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     自分のデスクに戻ると、颯は深く息をついた。モニターには先ほどの資料がまだ表示されている。開発統括:春海悠斗。その文字を見つめながら、これから始まる日々のことを考える。 毎日顔を合わせることになる。会議で、レビューで、進捗報告で。上司と部下として、適切な距離を保ちながら仕事をしなければならない。過去のことは忘れて、プロフェッショナルとして振る舞わなければならない。 できるだろうか。 颯は目を閉じて、深呼吸をする。できるかできないかではない。やらなければならないのだ。これは仕事だ。個人的な感情を持ち込むべきではない。 ――感情を判断に入れるべきじゃない。 皮肉なことに、春海の言葉が指針になる。そうだ、春海のいうとおりだ。感情は邪魔になる。理性的に、論理的に、プロフェッショナルとして振る舞おう。 午前中の仕事は、まったく手につかなかった。コードを書こうとしても、集中できない。変数名を打ち間違え、セミコロンを忘れ、簡単な論理ミスを繰り返す。ドキュメントを読もうとしても、文字が頭に入ってこない。同じ行を何度も読み返してしまう。 春海の姿が、視界の端にちらつく。彼は自分のデスクで黙々と仕事をしている。時折、誰かが相談に行き、春海は的確にアドバイスを返している。その姿は、まさに理想の上司そのものだった。 十一時頃、春海が席を立った。颯は画面を見つめるふりをしながら、その動きを目で追う。春海はコーヒーサーバーの前で立ち止まり、カップに注ぐ。その仕草さえも無駄がない。 ふと、春海がこちらを見た。目が合う。颯は慌てて視線を逸らしたが、遅かった。春海は確実に、颯が見ていたことに気づいただろう。恥ずかしさで顔が熱くなる。 ようやく昼休みになり、颯は屋上に向かった。エレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。人気のない屋上で、春風に吹かれながら深呼吸する。 空は青く澄んでいた。白い雲がゆっくりと流れていく。遠くに見えるビル群は、春の陽射しを受けてきらめいている。都会の喧騒が、ここまでは届かない。 ベンチに座り、持参した昼食を取り出す。コンビニで買ったおにぎりとサンドイッチ。味はよくわからなかった。

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     大会議室のドアを開けると、すでに十名ほどが集まっていた。開発部のメンバーだけでなく、営業やマーケティングの顔も見える。みんな少し緊張した面持ちで、配布資料に目を通している。 颯は空いている席に座った。隣の席には、先輩エンジニアの山田が座っている。彼は颯の入社時からの指導役で、技術的な相談によく乗ってくれる人だ。「大きなプロジェクトだな」 山田が小声で話しかけてくる。「ええ、資料を見る限り、かなり野心的な内容ですね」「新しいリーダーがどんな人か、楽しみだよ。噂では相当な切れ者らしいが」 颯は頷きながら、配布された資料を開く。一ページ目にはプロジェクトの概要が書かれている。次世代AIシステムの開発で、顧客の行動を予測し、最適なサービスを提供する革新的なプラットフォームだ。 ページをめくっていく。技術仕様、システム構成図、開発スケジュール。そして、体制図のページ。 颯の視線が、一点で止まった。 開発統括:春海悠斗 文字が霞んで見える。目を擦り、もう一度見る。間違いない。春海悠斗。その名前が、確かにそこにあった。 心臓が大きく跳ねた。血液が耳の奥で脈打つ音が聞こえる。周りの話し声が、急に遠くなったような気がした。 春海悠斗。まさか。同姓同名かもしれない。そんなはずはない。あの春海がここに? なぜ? いつから? 思考が渦を巻く。記憶が押し寄せる。研究室の蛍光灯、キーボードの音、コーヒーの香り、そして――。「おはようございます」 低く落ち着いた声が、会議室の空気を震わせた。 颯の呼吸が止まる。この声は――間違いない。ゆっくりと顔を上げる。会議室の入り口に立っていたのは、紛れもなく春海悠斗その人だった。 時間が止まったような感覚に陥る。五年という歳月が、一瞬で消え去った。 春海は相変わらずだった。スーツの着こなしは完璧で、一分の隙もないように見えた。髪は短く整えられ、清潔感がある。眼鏡の奥の瞳は冷静で、表情からは感情が読み取れない。顔つきが少し大人びたような気もするが、本質的な部分は変わっ

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     朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。 高橋颯は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ます。六時半。いつもと同じ時間だ。体が勝手に覚えている日常のリズムだった。ベッドから起き上がり、窓を開ける。四月の朝の空気は、まだ少し肌寒い。遠くで鳥の声が聞こえた。 洗面所の鏡に映る自分の顔を見つめる。二十七歳。大学を出て五年。顔つきは多少大人びたかもしれないが、本質的な部分は変わっていない気がする。髪を整え、髭を剃る。これも毎朝の儀式のようなものだ。 キッチンでコーヒーを淹れる。豆を挽く音が静かな部屋に響く。この音を聞くと、なぜか研究室のコーヒーメーカーを思い出してしまう。深夜、疲れた体にカフェインを流し込みながら、コードと格闘した日々。そして、隣で同じように作業をしていた人のことを――。 首を振って、雑念を追い払う。今日は新プロジェクトのキックオフ。集中しなければ。 朝食は簡単に済ませた。トーストとスクランブルエッグ。テレビのニュースは経済の話題ばかりで、あまり興味が湧かない。時計を確認し、スーツに着替える。ネクタイを結びながら、今日の予定を頭の中で整理した。九時から全体会議。新しいプロジェクトの詳細が発表される。 マンションを出ると、通勤の人波がすでに動き始めていた。駅までの道のりは、もう体が覚えている。信号の変わるタイミング、人の流れの癖、全てが予測できる範囲内だった。 電車のホームでは、いつもの場所に立つ。三両目の二番ドア。ここが一番乗り換えに便利だと、入社してすぐに覚えた。三両目の二番ドア。ここが一番乗り換えに便利だと、入社してすぐに覚えた。同じ時間、同じ車両には、見覚えのある顔がいくつもあった。名前は知らないが、同じ時を共有する仲間のような存在。 吊り革につかまり、スマートフォンでプロジェクトの進捗を確認する。昨日までのタスクは全て完了。今日から新しいフェーズが始まる。画面に表示されるコードの断片を見ていると、ふと指が止まった。 return false; この一行が、妙に目に留まる。偽を返す。否定を返す。五年前、自分も同じことをしたのではないか。想いを伝えることを否定し、何も言わずに終わらせた。

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     蛍光灯が静かに明滅していた。 深夜二時を過ぎた情報学研究室に残っているのは、颯と春海の二人だけだった。キーボードを叩く規則正しい音が、沈黙を縫うように響いている。 颯は手元のコードを見つめながら、隣に座る春海の横顔を盗み見た。眼鏡の奥の瞳は、モニターに映る数列を追っている。その表情には、いつもの冷静さがあった。まるで感情という熱を帯びていない、完璧な機械のように。 ――この人は、どんなときも揺れない。 修士二年の春海は、研究室で最も優秀な院生だった。誰もが認める理性的な判断力と、完璧な論理構成。学部三年の颯にとって、春海は憧れそのものだった。 いや、憧れという言葉では足りない。 颯は、自分でも気づかないうちに、春海の一挙手一投足を目で追うようになっていた。彼が淹れるコーヒーの香り、資料をめくる指先、考え込むときの眉間の皺――そのすべてが、颯の胸を締め付けた。光の中にいる春海と、その影に立つ自分。その距離が、痛いほど愛おしかった。*「高橋」 不意に名前を呼ばれて、颯は息を呑んだ。心臓が跳ねる。「これ、見てくれるか」 春海がモニターを指差す。颯は慌てて椅子を寄せた。肩が触れそうな距離で、春海の体温を感じる。シャツからは微かに洗剤の匂いが香った。胸が高鳴った。「ここのアルゴリズム、少し修正が必要だな」 春海の指が、颯のキーボードに伸びる。その手が、一瞬、颯の手に触れた。 電流が走ったような感覚。颯は息を止めた。触れた場所が、熱を持って震えている。 だが春海は、何事もなかったかのように手を引いた。その動作があまりにも自然で、颯の心だけが取り残された。「……感情を持ち込むと、判断が鈍る」 ひとり言のような呟きが、颯の耳に届いた。春海は再び自分のモニターに向き直る。横顔に浮かぶ影が、どこか寂しげに見えた。* その言葉が、胸に刺さった。 春海にとって、感情は邪魔なものでしかないのだろうか。この距離も、この時

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